久慈簡易裁判所 昭和43年(ろ)4号 判決 1968年5月23日
主文
本件公訴を棄却する。
理由
被告人に対する本件公訴事実は、「被告人は自動車運転の業務に従事する者であるが、昭和四二年五月六日午後一〇時一五分ころ、自動二輪車を運転し、岩手県九戸郡種市町第二三地割一五五番地附近道路を時速約四〇粁で南進中、母の手にひかれて歩行対進してきた明戸久子(当五年)の側方を通過するにさいし、その左方同伴者との間隔がせまいから進路を変えるなどしてこれと十分な間隔をとり適宜減速進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同人の左側に近接し、同速度で同一進路を進行した過失により、同人を自車の右側部に接触転倒させ、よつて同人に対し、全治二か月間を要する右下腿骨々折の傷害を負わせた。」というのである。
被告人は昭和二三年一月二〇日生れで本件犯行時は、一九年三か月の少年であつたところ、本件所轄警察は、本件を捜査し昭和四二年一二月一五日付で検察官に対し、本件の送致手続をなし、検察官は昭和四三年一月五日右送致を受理し、本件について少年法四二条による家庭裁判所送致の手続を経ることなく、被告人が成年になつたのちの同年三月一五日公訴を提起したことは、記録上明白である。
少年法は、少年の健全な育成を期する見地から少年事件については、いわゆる家庭裁判所先議の原則を採用し、その手続や処遇に関し、保護的な特別の措置を講じている。そして家庭裁判所が刑事処分相当と認めて少年事件を検察官に送致しない限り検察官は当該事件につき公訴提起ができないことになつている。そこで少年法の趣旨からすれば捜査官としては少年事件につき、その少年が成年に達する前にできる限り捜査を遂げ家庭裁判所における審判の機会を与えるべきである。いやしくも捜査官が少年事件の捜査に必要やむを得ない限度を超えて、いたずらに日時を費し、当該事件につき家庭裁判所における審判の機会を失わせるに至るが如きは許されないのであつて、かかる捜査手続は少年法の趣旨に反し、違法であり、そして、当該捜査手続の違法が重大で、かつ、その違法な手続を前提としなければ公訴提起が不可能ないし著しく困難であつたという意味で両者が密接不可分な関係を有するような場合においては、公訴提起自体がいかに法定の手続を践んでなされていてもなおこれを違法としなければならない実質上の理由が存するものとして、捜査手続の右違法は、公訴提起の効力に影響を及ぼし、これを無効ならしめるものと解されているのである(仙台高等裁判所昭和四二年一〇月一七日刑二部判決参照)。
ところで捜査官が少年事件の捜査に必要とする期間は、事案ごとに異なり一概に決し得ないのであるが、この点に関する昭和四〇年から同四三年の間における犯時少年の業務上過失傷害事件処理状況調によると、次のとおりである。事件発生から検察官に事件送致されるまでの警察の捜査期間は、本件所轄警察においては、二か月ないし一一か月である。しかしこれは二戸警察における一か月ないし三か月に比べあまりにも差異があり必要以上に期間を徒過しているのではないかとの疑問が生ずるのである。右事件送致を受けてから家庭裁判所に事件送致されるまでの検察官の捜査期間は約一か月である(久慈および二戸区検察庁検察事務官向井田および佐藤作成の各報告書参照。)従つて少年の業務上過失傷害事件については当該事件の捜査を困難ならしめる特別の事情が存しない限り警察および検察官を通じて捜査に必要な期間は大体四か月で、この期間内に捜査を遂げ当該事件を家庭裁判所に送致できるものと考えられるのである。
そこで、本件が少年事件として家庭裁判所に送致され得たものかを検討する。本件事案は前記のとおりで、被告人は本件事故直後、本件所轄の警察に事故の発生を届け警察の取調べ以来、事実を認めており事案は、とくに複雑でもなく、また関係人も少なく、所在も一定し明らかで、取調べに特別困難な事情もなかつたものと考えられるし、当該事故発生から被告人の成年に達するまでの期間は八か月余りもあつたのである。本件所轄の久慈警察署長作成の「交通事件送致について回答」と題する書面および盛岡地方検察庁検察官検事渡部正和作成の「手持少年事件を家裁送致前年令超過させた事由等について」と題する書面を検討するも単に本件捜査が遅延した事由を述べているに過ぎないのであつて、本件捜査の遂行を困難ならしめたと認められる特別事情は何等見出し得ないのである。従つてたとえ検察官が本件の送致を受けたときには本件を家庭裁判所に送致するため、その処遇意見を付するに必要な期間が存しなかつたとしても、警察において、遅滞なく捜査を遂げ検察官に対する事件送致をしていたならば、本件は、当然に検察官から少年事件として家庭裁判所に送致され得たものであると考えられるのである。
被告人は中学校卒業後、父の農業を手伝い昭和四一年四月一二日に普通免許を、昭和四二年二月二〇日に二輪免許をそれぞれ取得し、以来車両を運転してきたものであるが、本件の事故前後において、道路交通法違反や交通事故を犯したことなく、他に前科前歴も有しないのである。本件事案は前記のとおり、歩行者に全治約二か月の重傷を負わせたものであはるが、これは被告人が被害者との間隔を誤認してその直近を進行したことによるものであつて、その過失の程度は必ずしも重いとはいえないし、道路中央寄りを歩行していた被害者側にも多少の過失があつたものと考えられるのである。被害者の母親は、被告人が適切な救護をなし、入院中の被害者をたびたび見舞い治療費も勘定日の都度支払い多額の見舞金を出したことに感謝し、被害者も全治したので、被告人のもとまで御礼を述べに行つたというのである(明戸ミワの昭和四三年二月二四日付司法警察員に対する供述調書参照)。以上のような事情を考慮するともし本件が少年事件として家庭裁判所に送致されていたならば同裁判所の保護処分もしくは保護的措置を受けることにより終局したかも知れず、必ずしも本件が検察官に送致されるものとは限らなかつたのではなかろうかとも考えられるのである。
本件は前記のとおり、被告人が成年に達した後、公訴が提起されたものである。従つて本件公訴提起それ自体は形式的に違法でないように見えるのであるが、前述のとおり捜査官とくに本件所轄警察が本件捜査に必要やむを得ない限度を超えていたずらに日時を費したため、本件につき、家庭裁判所の審判を受ける機会を失わしめたもので、右捜査手続は少年法の趣旨に反するものであり、その違法は重大である。そして右違法の存したことがまさに本件公訴の提起をもたらしたわけのものであるから、前述したとおり、捜査手続の違法が公訴提起の手続を無効ならしめるものとして、本件公訴は結局刑事訴訟法三三八条四号の場合に該当するものといわなければならないので本件公訴を棄却する。